谷中の歴史街歩き-1
2024年7月、サイトのリニューアルに伴い加筆修正しました。
ブログ「谷中で見る 都心に生きる古木」で谷中を歩きしましたが、今回は谷中の史跡を中心にぶらり歴史街歩きの紹介です。
このエリアは谷根千と言われる下町街歩きが人気ですが、ネットやガイド本の詳しい情報は主に谷中銀座や食べ歩き中心です。このブログは史跡を中心に歴史が感じられる街歩きガイドになれば嬉しいです。古木と合わせて谷中を街歩きしましょう。
谷中は「寺町」と呼ばれるように、60以上の仏教の寺院が集中している古い下町です。上野戦争で罹災したものの、震災や空襲では被害が少なく、江戸以来の古い町屋や狭い路地の町並みが今でも残っています。
訪れた史跡は…
- 太田道灌像
- 本行寺の太田道灌物見塚の碑、小林一茶の句碑
- 経王寺の上野戦争の弾痕
- 夕焼けだんだん
- 初音小路
東京レトロ街歩きガイド&マップのエリア別「Ar-19谷中から根岸、千駄木を歩く」に収録されています。
太田道灌像
JR日暮里駅のバスロータリーに出ると、まず目にするのが太田道灌の像です。
「山吹の里伝説」にちなんだ鷹狩り装束の道灌の騎馬像です。この像は、平成元年に橋本活道氏(僧侶・彫刻家)が制作し、鈴木俊一氏(元東京都知事)が「回天一枝」と題したといいます。
Pic.太田道灌像
Pic.太田道灌像
「山吹の里伝説」で山吹の花を道灌に捧げた少女の姿を現した像です。
この像は平野千里氏(荒川区顧問・彫刻家)が制作し、平成30年に設置されました。鷹狩りの途中で道灌が急な雨に遭遇し、路傍の農家に立ち寄り、蓑を借りようと声をかけると、一人の娘が出てきて、黙って一枝の山吹を捧げました。 「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」
Pic.山吹の花を道灌に捧げた少女
本行寺の太田道灌物見塚の碑、小林一茶の句碑
本行寺は、日蓮宗の寺で「月見寺」とも呼ばれて江戸時代の文人や粋な人たちから親しまれて来ました。本行寺境内にはかつて眺めのよいこの地に「物見塚」(見張り台)を作りました。塚は鉄道が敷設されてなくなりましたが、この碑は残りました。
Pic.本行寺
Pic.太田道灌像物見塚の碑
一茶もしばしば本行寺を訪れていました。道灌の言い伝えは古くからよく知られていて、小林一茶もこの地で句を詠みました。「かげろうや どうかんどのの ものみづか」
Pic.小林一茶の句碑
経王寺山門の上野戦争の弾痕
上野戦争では、戦局はあっという間に新政府軍側が有利となり、夕方には彰義隊は瓦解し敗走し始めます。その敗残兵の一部が新政府軍の攻撃口とならなかった北東部に位置する経王寺に逃げ込んだといいます。新政府軍兵士との間で経王寺門前で銃撃戦が行われたといわれます。
Pic.経王寺の山門
Pic.山門の上野戦争の弾痕
Pic.山門の上野戦争の弾痕
夕焼けだんだん
谷中といえばこの写真になった、定番の景色です。谷中銀座商店街に通じる「夕やけだんだん」と呼ばれる階段です。この「夕やけだんだん」という一風変わった名称は、一般公募によって命名されました。今日は、ここまでで谷中銀座には向かいません。
Pic.夕やけだんだんから谷中銀座を望む
初音小路
夕やけだんだんから路地へそれると、初音小路があります。昼なお暗くちょっと躊躇しますが、一歩踏み入れると昭和の雰囲気に満ちています。簡易的に組まれただけの屋根付き小路で奥行きはそれほどなく、飲食店が十数店舗がひしめいています。戦後間もなくの飲食街らしく昭和の雰囲気が未だそのまま残っています。
Pic.初音小路の入り口
Pic.初音小路
次は朝倉彫塑館へ向かいます。「谷中の歴史街歩き-2」へ続きます。