三田を歩く
2024年7月、サイトのリニューアルに伴い加筆修正しました。
このブログは「三田を歩く」です。
高輪を中心に品川から三田に至る起伏のある台地の縁を歩き、今に残る名坂と史跡を辿ります。ブログ「高輪、三田の街歩きウォーキング 概要編」からの続きですので、参照してください。
今回、訪れた場所は…
- 長松寺 荻生徂徠の墓
- 薬王寺 加賀千代女の井戸
- 亀塚
- 済海寺 フランス領事館跡碑
- 元和キリシタン遺跡
- クェート大使館
- イタリア大使館 (大石主税良金ら十士切腹の地)
- 水野監物邸跡 (赤穂浪士の間十郎ら9人が切腹)
長松寺 荻生徂徠の墓
江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者で、徳川吉宗に重用されました。赤穂事件の際には赤穂浪士の切腹を進言したといいます。
Pic.荻生徂徠の墓 長松寺
Pic.荻生徂徠の墓 案内板
次に幽霊坂と聖坂を通り薬王寺へ向かいます。幽霊坂とは、坂の周辺地域には八丁堀より移転されてきた寺院群が道の両脇に建ち並び、昼でも幽霊が出そうなほど暗い場所で寂しい場所だからといわれています。
Pic.幽霊坂
薬王寺 加賀千代女の井戸
俳人加賀千代は諸国歴遊の途中に立ち寄り、「朝顔につるべ取られてもらい水」と詠んだ井戸です。言われは…
文永元年(1264年)日蓮聖人は故郷の母親を訪ねようと思い、千葉県小湊へ向かう途中で東京の薬王寺付近の村里を通りかかったそうです。当時、この村里は大干ばつで草木も枯れ、田畑を耕すことも出来ず村人たちは苦しみ悩んでいたそうです。諸国を歴訪していた加賀の千代女がこの霊水の噂を聞いて、「自分もそのご利益を頂戴しよう」と立ち寄りました。すると夏の朝であったため、朝顔が井戸の釣瓶に巻き付いて愛らしい花を咲かせていました。「なんと人間だけでなく朝顔のような草木たちもこの霊水のご利益のことを知っているのか」と感動して、加賀の千代女はその井戸水を朝顔に譲って、自分はわざわざ他所から水を貰ってきたということです。
Pic.加賀千代女の井戸
Pic.薬王寺
亀塚
亀塚は古墳とされています。更級日記に登場する竹芝寺伝説の地とも言われています。塚の頂部に酒壺があり、ここに出入りする亀を神と崇めていたが一夜の風雨で酒壺の亀が石になったという伝説から亀塚と呼ばれています。また、この地は「更級日記」に登場する竹芝寺伝説の地とも言われています。
Pic.亀塚
Pic.亀塚
済海寺 フランス領事館跡碑
日仏修好通商条約にもとづき、1859年(安政6年)に設置され初代公使としてド・ベルクールが駐在しました。フランスは親幕府的な立場をとるようになり、積極的に関与しました。1867年(慶応2年)からフランス軍事顧問団による幕府陸軍の訓練もしました。
Pic.フランス領事館跡碑 済海寺
元和キリシタン遺跡
徳川家光はキリシタン迫害政策を強化し、1623年(元和9年)に宣教師を含む信者50名をこの地で火刑に処しました。カトリック高輪教会に江戸の殉教者顕彰碑があります。
Pic.元和キリシタン遺跡
Pic.元和キリシタン遺跡
Pic.カトリック高輪教会にある江戸の殉教者の絵図
途中、聖坂にクェート大使館があります。
Pic.聖坂
クェート大使館
丹下健三の設計で1970年に竣工。2本の太いコア・シャフトによって支えられた上層部と下層部で構成されるダイナミックな造形は凝りに凝っている傑作です。丹下健三の代表作の一つと言ってもいいです。
Pic.クェート大使館
Pic.クェート大使館
さらに潮見坂、安全寺坂、綱坂を経て伊予松山藩の中屋敷跡、現在のイタリア大使館へ向かいます。
Pic.綱坂
イタリア大使館 (大石主税良金ら十士切腹の地)
伊予松山藩の中屋敷跡です。1703年(元禄16年)、大石主税良金ら10人がこの場所で切腹しました。大使館なので非公開で残念ながら見れません。
Pic.イタリア大使館
Pic.イタリア大使館
大名屋敷跡を彷彿させるような建築も塀の外から垣間見えます。
Pic.イタリア大使館
イタリア大使館の隣は慶應大学です。慶應大学は別ブログでレポートしますが、三田駅へ抜ける商店街に水野監物邸跡があります。
水野監物邸跡
三河岡崎藩水野家の中屋敷跡でした。赤穂浪士の間十郎ら9人が切腹。水野忠之は浪士を丁重に遇したといいます。路地の奥の狭いスペースに、屋敷の庭を模したような空間があるだけ。石灯籠と説明板が目印ですが、殆ど植栽に隠れて探すのに苦労します。
Pic.水野監物邸跡
イタリア大使館の隣は慶應大学です。三田といえば慶應大学ですね。次のブログ「三田の慶應大学を歩く」へ続きます。