江戸のお裁きシステムを辿る
2024年7月、サイトのリニューアルに伴い加筆修正しました。
時代劇などで必ず登場するお馴染みの「奉行所 与力 同心 小伝馬町牢屋敷」といった言葉ですが、東京のこういう所で、こういう距離感で実際に繰り広げられていたんだ…というのを実際に歩いて肌で実感できます。
東京レトロ街歩きガイド&マップのエリア別「Ar-01丸の内から銀座を歩く」と「Ar-06日本橋から人形町、小伝馬町を歩く」に収録されています。
訪れた墓所は…
- 南町奉行所跡と穴蔵
- 北町奉行所跡
- 小伝馬町牢屋敷跡 (十思公園)
- 吉田松陰終焉の地 (十思公園)
- 石町時の鐘 (十思公園)
- 十思スクエア
- 江戸伝馬町処刑場跡の碑 (大安楽寺)
- 八丁堀の与力・同心組屋敷跡 (京華スクエア)
南町奉行所跡と穴蔵
JR有楽町駅中央口のすぐ目の前に南町奉行所がありました。名奉行と言われた大岡越前守忠相が手腕をふるった場所です。立派な石碑があると思いきや、由緒ある場所なのに、何と配電盤が碑の代わりになっています。どういうことなんでしょうね? 仮設かもしれません。
Pic.南町奉行所跡
壁面には判別しにくいですが、説明板が埋め込まれています。
Pic.南町奉行所の説明板
エスカレータを降りた真下の地下には発掘調査で下水溝や井戸などが出土し、穴蔵(地下室)が立てて復元展示されています。更に両脇のベンチには出土した水道管(木樋)や石組材が使われていて、休憩スペースになっています。
Pic.南町奉行所の穴蔵
Pic.穴蔵の説明
北町奉行所跡
東京駅からほど近い丸の内トラストシティービルの谷間の通路に北町奉行所跡があります。北町奉行所は1805年(文化2)設立されました。遠山の金さん(遠山左衛門尉景元)も3年間ここで奉行を務めました。痕跡となるものはなく、新しそうな説明板のみがあります。
Pic.北町奉行所跡
Pic.北町奉行所跡の説明板
近くには江戸城外堀の石垣も一部残っていて、復元活用されています。写真中央の石垣3列分が外堀の石を使っています。う〜ん、無いよりは良いかな…という程度です。
Pic.江戸城外堀の石垣
小伝馬町牢屋敷跡 (十思公園)
高野長英や吉田松陰らも収容されていました。収容者の総数は大体300から400人程度だったようです。1875年(明治8年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用されていました。
Pic.小伝馬町牢屋敷跡
吉田松陰終焉の地 (十思公園)
安政の大獄により吉田松陰はこの地で最期を迎えました。中央の石碑には、吉田松陰先生の辞世の句が刻まれています。なお、吉田松陰の墓は小塚原回向院に埋葬され、その後に松陰神社に移設されました。
Pic.吉田松陰終焉の地碑の全景
辞世の句「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ぬとも 留置まし 大和魂」が刻まれています。
Pic.吉田松陰辞世の句碑
江戸伝馬町処刑場跡の碑 (大安楽寺)
ここ一帯は伝馬町牢屋敷の敷地の一部で、大安楽寺はその処刑場の跡地に建立された寺院です。吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎などが投獄され、その多くがここで処刑されました。道路沿いの壁面沿いに伝馬町処刑場跡の碑があります。
Pic.江戸伝馬町処刑場跡の碑
大安楽寺の内部には延命地蔵尊が建立されています。吉田松陰を始めとする人々の伝馬町牢、処刑場跡を供養する為に建立されました。ここの石碑には「江戸傳馬町牢御椓場跡」と記されています。
Pic.延命地蔵尊
十思スクエア
十思公園の隣接の十思スクエア別館には伝馬町牢屋敷の内部の精密模型が展示されています。使われていた上水井戸 と上水木桶の遺構もあります。(今回は見れませんでした)
因みに十思スクエアは旧十思小学校で、1928年(昭和3年)の竣工のアールデコ調のユニークなレトロ近代建築です。災害時の避難場所としての公園を併設した関東大震災後の復興小学校の一つでした。
Pic.旧十思小学校(十思スクエア)
八丁堀の与力・同心組屋敷跡 (京華スクエア)
捕物帳で庶民から「八丁堀の旦那」と呼ばれた、町奉行配下の与力・同心の町でした。八丁堀といえば捕物帳で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。おおよそ与力50人、同心280人が住み、南北両町奉行所に分かれて勤務していたといいます。
Pic.八丁堀の与力・同心組屋敷跡
Pic.八丁堀の与力・同心組屋敷跡
八丁堀の与力・同心組屋敷跡の説明板があるところは京華スクエア(旧京華小学校)となっています。1929年(昭和4年)竣工のレトロ近代建築です。関東大震災の被害を受けて、その後に再建された復興小学校の1つで、当時の校舎が現存しています。
Pic.京華スクエア(旧京華小学校)