谷中霊園に眠る有名人-1
2024年7月、サイトのリニューアルに伴い加筆修正しました。
東京レトロ街歩きガイド&マップには「有名人のお墓を訪ねる (東京墓マイラー)」というテーマがあります。(誰でもそうですが、)歴史上の有名人の最後の足跡が墓所ということになります。にわか墓マイラーとなって、都内の有名人の墓所を巡りるものです。
霊園内はお墓の住所というものがありますが、それでも目指すお墓にアクセスするのは一苦労です。そこで、コースマップではGoogleマップでお墓の位置に正確にピンを立てて、自分のいる現在位置と見比べて迷わずにアクセスできるようにしてあります。
今回は、テーマ別「Th-16有名人のお墓を訪ねる」、それとエリア別「Ar-19谷中から根岸、千駄木を歩く」に収録の谷中霊園の墓所を巡ります。
谷中霊園
JR日暮里駅の南改札口から紅葉坂を登るとすぐに天王寺の山門にでます。
Pic.日暮里駅から紅葉坂へ
Pic.紅葉坂の道標
天王寺の山門をくぐると正面には1690年(元禄3年)鋳造の釈迦如来坐像が鎮座しています。
Pic.天王寺の釈迦如来坐像
谷中霊園は江戸時代には天王寺の墓地でした。ここから谷中霊園が広がっています。旧参道だったところがメイン通路になっていて桜並木になっています。
谷中霊園は、青山霊園と同時期の1874年に明治政府が天王寺の一部を没収し公共墓地として開設しました。谷中の寺町の中にあって、寛永寺や天王寺の墓地が入り組んで一団の墓域を形成し、園内は明るく静かで、著名な画家や文学者、俳優なども眠っています。
Pic.谷中霊園の桜並木
有名人のお墓はたくさんありキリがないのですが、独断と偏見で下記の有名人に絞りました。厳密にいうと谷中霊園だけではなく、隣接する寛永寺墓地や全生庵も含んで巡ります。
訪れた墓所は…
- 高橋お伝
- 鳩山一郎、威一郎
- 渋沢栄一
- 横山大観
- 獅子文六
- 長谷川一夫
- 森繁久彌
- 徳川慶喜公墓所 (寛永寺墓地)
- 徳川御三卿の墓所 (寛永寺墓地)
- 山岡鉄舟 (全生庵)
紀行の詳細は、獅子文六から「谷中霊園に眠る有名人-2」に続きます。こちらもご覧ください。
高橋お伝の墓所
明治9年東京浅草で古着商を殺害して捕らえられ斬首刑に処され、希代の毒婦・妖婦と評判された女性です。その生涯は仮名垣魯文の「高橋阿伝夜叉譚」 (1879年) など多くの読み物で世人の好奇心をそそりました。
お伝の墓は小塚原回向院にもあります。谷中霊園にあるお墓は講談なのでお伝を取り上げた三遊亭圓朝や五代目尾上菊五郎らが建立したと言われていますが、真偽は不明です。
Pic.高橋お伝の墓
鳩山一郎・威一郎の墓所
鳩山一郎は第52・53・54代内閣総理大臣を務め55年体制を築き、日本とソビエト連邦の国交回復を実現した政治家。1959年(昭和34年)に没。鳩山一郎の息子が威一郎で、更にその息子が鳩山由紀夫、鳩山邦夫という日本有数の政治家の家系です。
Pic.鳩山一郎・威一郎の墓
渋沢栄一の墓所
明治維新後は大蔵省高官を経験した後に実業界 に転じて1873年(明治6年)に日本最初の銀行(現みずほ銀行)を創設し頭取に就任。その後は東京ガス・東京海上火災保険など500を超える企業・団体の設立に関わり日本資本主義の父と呼ばれています。 1931年(昭和6年)に91歳の生涯を閉じました。青淵は栄一の雅号です。渋沢栄一の墓は仕えていた徳川慶喜の墓の方向を向いています。
Pic.渋沢栄一の墓
栄一の墓の左には後妻の渋沢兼子の墓、右には孫の渋沢敬三夫妻墓と、先妻の渋沢千代の墓が並んでいます。
Pic.渋沢栄一の墓の全景
横山大観の墓所
明治〜昭和期の日本画の大家。東京美術学校を岡倉天心らと辞職、日本美術院に参加。その新しい画風は朦朧体と酷評を浴びましたが,さらに新画風の開拓に努め、大正3年日本美術院を再興し、近代日本画の中心作家として活躍しました。195年(昭和33年)に没。
Pic.横山大観の墓
次の獅子文六から「谷中霊園に眠る有名人-2」に続きます。