江戸城を極める 和田倉門〜外桜田門
2024年7月、サイトのリニューアルに伴い加筆修正しました。
テーマ別の東京レトロ街歩きガイド&マップの「Th-01江戸城を極める」 に収録されています。このうち、このブログでは皇居外苑から日比谷公園経由して和田倉門から外桜田門までを歩きます。
訪れた史跡は…
- 桜田巽櫓
- 和田倉門
- 和田倉門守衛所跡
- 行幸通り
- 桔梗門
- 坂下門
- 二重橋 伏見櫓
- 外桜田門
- 楠木正成像
- 日比谷見附跡
なお、「江戸城を極める」のブログでは、今までに「江戸城を極める 平川門から清水門へ」「江戸城を極める 清水門から北の丸、田安門へ」「江戸城を極める 千鳥ヶ淵から半蔵門へ」「江戸城を極める 三宅坂から外桜田門へ」で内濠を一周していますので、是非参照してください。
また外濠の一周については今後、掲載したいと思っています。
桜田巽櫓
城の隅角に造られた監視と防御を目的とする櫓が「隅櫓」ですが、江戸城で現存する唯一の隅櫓になっています。桜田巽二重櫓とも、単に巽櫓とも呼ばれています。本丸の東南が名の由来です。江戸城で現存する唯一の二重の隅櫓で、震災で損壊したのちに解体して復元されました。この景観も江戸城を代表するものです。
Pic.桜田巽櫓
Pic.桜田巽櫓
和田倉門跡
江戸時代は「蔵の御門」と呼ばれていた和田倉門は、一般人は通行できず、武士だけが通ることを許されていました。徳川氏が江戸城に入った頃、この辺りを蔵地としたので、この名称をとったそうです。和田倉門は現在、石垣のみが残されています。門前の和田倉橋は江戸城木橋の形を復元した貴重な木橋です。
Pic.和田倉門跡
Pic.和田倉門跡
Pic.和田倉門跡
和田倉門守衛所跡
ここが皇居の出入り口に当たるため、行幸啓の折に歩哨が立った所と考えられます。重厚でレトロ感たっぷりの建築です。
Pic.和田倉門守衛所跡
Pic.和田倉門守衛所跡
行幸通り
行幸通りは大正12年、関東大震災復旧事業によりお濠を埋め立てて造られたもので、皇居の正式な入り口です。行幸通りは皇室行事と外国大使の信任状捧呈式の馬車列が東京駅から皇居に向かうときのみ利用されています。東京駅前から拡幅整備されて、視界が開けて東京を代表するような景観になりました。
Pic.行幸通りから東京駅を見る
Pic.行幸通りから皇居を見る
桔梗門
桔梗門は1614年(慶長19年)に造られました。門名の由来は最初に江戸城を築いた太田道灌の時代に、この近くに泊船亭があったと伝えられ、道灌の家紋の桔梗紋から付けられたといわれています。別名として、「内桜田門橋」とも呼ばれます。
Pic.桔梗門
坂下門
門内の近くに宮内庁があります。坂下門は江戸城西丸造営直後に造られたと伝えられています。西丸大奥に近く、西丸の通用門として利用されていましたが、今は宮内庁の出入口として利用されています。1862年(文久2年)、老中安藤対馬守がこの門外で水戸浪士に襲われた「坂下門外の変」は有名です。
Pic.坂下門
二重橋と伏見櫓
皇居正門前には2つの橋が架かっており、広場から見て奥側にある鉄橋が「正門鉄橋」、手前の石橋が「正門石橋」。「二重橋」はこの二つの橋の総称であると勘違いされがちですが、正式には「二重橋」とは「正門鉄橋」のことを指しています。皇居前広場から二重橋越しに伏見櫓を眺めることができます。皇居を代表する象徴的な風景になっています。
Pic.二重橋と伏見櫓
Pic.二重橋 (正面石橋)
Pic.二重橋 (正面鉄橋)
外桜田門
一般的には桜田門と呼ばれています。枡形が完全に残っていて、外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造になっており桝形を構成しています。1860年(安政7年/万延元年)、大老井伊直弼がこの門外の堀端で水戸浪士らに暗殺される「桜田門外の変」が起きました。因みに江戸城の門のうち清水門、田安門、外桜田門が当時の原形を保ち、国の重要文化財に指定されています。
Pic.外桜田門
Pic.外桜田門
Pic.外桜田門
Pic.外桜田門
楠木正成像
楠木正成像は別子銅山開坑200周年事業として住友から宮内庁に献納されもので、東京美術学校の高村光雲らに依頼したもの。銅像は木彫の原型製作に約3年を費やし、完成に至るまで10年の歳月がかけられました。上野公園の西郷隆盛像、靖國神社の大村益次郎像と共に「東京の三大銅像」の一つとして数えられています。
Pic.楠木正成像
Pic.楠木正成像
Pic.楠木正成像
日比谷見附跡
江戸城の内堀に作られた内曲輪門のひとつです。元々は日比谷交差点の位置にありましたが、明治初期に取り壊され、石垣の一部が日比谷公園の中に移築されました。
Pic.日比谷見附跡