泉岳寺 赤穂義士の墓
2024年7月、サイトのリニューアルに伴い加筆修正しました。
このブログは「泉岳寺 赤穂義士の墓」です。
高輪を中心に品川から三田に至る起伏のある台地の縁を歩き、今に残る名坂と史跡を辿ります。ブログ「高輪、三田の街歩きウォーキング 概要編」からの続きですので、参照してください。
尚、泉岳寺の赤穂義士の墓は、東京レトロ街歩きガイド&マップのテーマ別「Th-04忠臣蔵 吉良邸から泉岳寺へ」 にも収録されています。
泉岳寺
1612年(慶長17年)に徳川家康が創建。泉岳寺は赤穂藩浅野家の菩提寺でした。寛永の大火で焼失し、現在の高輪の地に移転してきました。家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、浅野ほかの五大名に命じ泉岳寺はできあがったといいます。山門は1832年(天保3年)に再建されたもの。また本堂は空襲に遭い消失し、現在の本堂は1953年(昭和28年)に落成した鎌倉様式の建築です。
Pic.泉岳寺 山門
Pic.泉岳寺 本堂
大石内蔵助良雄 銅像
この銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、所有が転々としていましたが、泉岳寺に寄進され、大正10年に除幕したものです。内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したものです。(泉岳寺より)
Pic.大石内蔵助良雄 銅像
墓所へ入る途中に、主税梅、瑤池梅、血染の梅,血染の石、首洗い井戸がありますので、横目で見ながら歩きます。
瑤池梅、血染の梅,血染の石、首洗い井戸
瑤池梅は義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものです。
Pic.瑤池梅
血染の梅,血染の石は浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石です。
Pic.血染の梅,血染の石
首洗い井戸は義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから呼ばれています。
Pic.首洗い井戸
墓所に入るには、入り口で線香の購入が必須です。どこにもそんな表示は無いんですけどね。墓の配置はこんな感じです。
Pic.墓の配置図
浅野長矩公之墓
Pic.浅野長矩公之墓
長矩公夫人之墓
Pic.長矩公夫人之墓
大石内蔵助良雄墓
Pic.大石内蔵助良雄墓
大石主税之墓
Pic.大石主税之墓
その他の義士の墓
Pic.その他の義士の墓
Pic.その他の義士の墓
墓地の傍に赤穂義士記念館、義士木像館が併設されていますが、有料のため今回は入館しませんでした。泉岳寺を後に、伊皿子坂を通り大石良雄外十六人忠烈の跡へ向かいます。
Pic.伊皿子坂
大石良雄外十六人忠烈の跡
都営高輪一丁目アパート入口には、「大石良雄等自刃の跡の碑」として石碑が建っています。
Pic.大石良雄等自刃の跡の碑
さらに奥に進むと塀に囲われた「大石良雄外十六人忠烈の跡」があります。かつてこの場所に熊本藩細川家下屋敷がありました。討ち入り後に内蔵助良雄ら17人が屋敷にお預けとなり、この地で切腹したといいます。細川家は赤穂浪士を厚遇したといいます。大石良雄外十六人忠烈の跡は囲われて施錠されていますが、案内板もあり、中の様子は窓から見れます。細川家の屋敷跡の一部が塀に囲まれて残されているとのこと。
Pic.大石良雄等自刃の跡の碑
Pic.大石良雄外十六人忠烈の跡
旧細川邸のシイ
大石良雄外十六人忠烈の跡からほど近いところに旧熊本藩細川家下屋敷に植えられていたスダジイがあり、 現在も当時のままの位置で残っています。樹齢は約300年の高さ:17m 幹周:7.4mといわれる堂々とした古木です。
Pic.旧細川邸のシイ
Pic.旧細川邸のシイ
Pic.旧細川邸のシイ 案内板
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