江戸城を極める 平川門から清水門へ
2024年7月、サイトのリニューアルに伴い加筆修正しました。
東京レトロ街歩きガイド&マップのテーマ別「Th-01江戸城を極める」を実際に歩きました。今回は平川門から清水門までの内濠沿いを反時計回りに実際に歩き、江戸城の濠や門、周辺の史跡、遺構を検証しました。
訪れた場所は…
- 和気清麻呂像 (大手濠緑地)
- 震災イチョウ (大手濠緑地)
- 江戸城 平川門
- 江戸城築城の碑
- 江戸城 石竹橋御門跡
- 大隈重信邸跡
- 旧軍人会館 (九段会館)
和気清麻呂像 (大手濠緑地)
昭和15年、紀元2600年記念事業として建立、楠木正成公銅像とともに文武の二忠臣を象徴したものです。 和気清麻呂は奈良時代末期から平安時代にかけての貴族。清麻呂は勤皇の忠臣と見なされており戦前には十円紙幣の肖像画になりました。
Pic.和気清麻呂像
Pic.和気清麻呂像
震災イチョウ (大手濠緑地)
樹齢は約150年とされています。もともとこの木は旧文部省庁舎のあった現在の毎日新聞社本社ビル近くに植えられていました。1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生。東京市中は猛火に呑まれ、この木も表面の一部が炎と高温で変質するも焼失は免れました。しかし周囲の樹木はこの木を除いてほぼ全部焼失し、以降「帝都復興のシンボル」として注目を集めたといいます。
Pic.震災イチョウ
Pic.震災イチョウ
江戸城 平川門
枡形門で木橋が往時のように残されるのは江戸城でもここだけです。罪人や死者を城外に出すときに使われた不浄門と言われています。東御苑への通路ともなっていますが、あいにく当日は定休日で門は閉鎖されていました。
Pic.江戸城 平川門
江戸城築城の碑
江戸・東京の繁栄と発展の基礎を築いた室町時代の武将太田道灌の追慕碑です。1457(長録元)年、太田氏は現在の皇居東御苑あたりにわずか1年で江戸城を築城したといわれています。この碑の材は、虎ノ門の石垣の一部が使われています。
Pic.江戸城築城の碑の全景
Pic.江戸城築城の碑
江戸城 竹橋御門跡
竹橋門は撤去されてしまいました。現在のアーチ型竹橋は大正15年の帝都復興事業で架設されました。
Pic.江戸城 竹橋御門跡の説明板と竹橋
Pic.江戸城 竹橋御門跡の碑
大隈重信邸跡
清水門の前、千代田区役所の敷地内にあります。1876年(明治9年)から1884年(明治17年)まで、この雉子橋邸宅に住み、1882年(明治15年)創立の早稲田大学の前身の東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。
Pic.大隈重信邸跡の碑
旧軍人会館 (九段会館)
竣工年:1934年(昭和9年) 設計:川元良一。九段会館の旧名称は「軍人会館」といい、帝国在郷軍人会の施設でした。1936年(昭和11年)に起きた二・二六事件の際には戒厳司令部が設置され、歴史的事件の舞台となりました。戦後はGHQ(連合国軍総司令部)に接収され、連合軍の宿舎になりました。地震による損傷もあり、再開発により既に解体され、会館の城郭風の建築様式を残しつつ、いわゆる腹巻ビルに建て替えられました。(写真は2022年4月のほぼ外観は完成の段階)
Pic.二・二六事件の時の旧軍人会館 (九段会館)
Pic.建替えになった旧軍人会館 (九段会館)
Pic.建替えになった旧軍人会館 (九段会館)
続きは清水門から北の丸公園を経て田安門までを歩きます。「江戸城を極める 清水門から北の丸公園、田安門へ」に続きます。