護国寺でにわか東京墓マイラー
2024年7月、サイトのリニューアルに伴い加筆修正しました。
護国寺は1681年(天和元年)徳川綱吉が母、桂昌院の願いを受け建立されました。後には将軍家の武運長久を祈る祈願寺となりました。東京都心部の本山級寺院で唯一、第二次世界大戦の戦禍を免れたため戦前の堂宇がまとまって残り、そのうち本堂と桃山時代築造の月光殿は国の重要文化財に指定されています。また宮家の墓所(豊島岡墓地)、陸軍用墓地や富士塚もあります。大隈重信ら多くの重鎮、著名人の墓所としても知られています。
江戸の面影を残す護国寺を訪ね、にわか墓マイラーとなって護国寺に眠る有名人のお墓を訪ねます。
訪れた史跡は…
- 仁王門
- 音羽富士塚
- 不老門
- 観音堂(本堂)
- 月光殿(旧日光院客殿)
- 大隈重信の墓所
- 三条実美の墓所
- 山縣有朋の墓所
- ジョサイア・コンドル(建築家)の墓所
- 音羽陸軍埋葬地英霊の塔
- 新選組隊士・谷口四郎兵衛の墓所
護国寺は、東京レトロ街歩きガイド&マップにはエリア別では「Ar-18護国寺から雑司ヶ谷、池袋を歩く」 、およびテーマ別では「Th-16有名人のお墓を訪ねる」に収録されています。
護国寺へのアクセスは地下鉄有楽町線護国寺駅を出て目の前です。
仁王門
徳川将軍の祈願寺としての伽藍の中で重要な表門です。建立は元禄10年(1697)造営の観音堂(本堂)よりやや時代が後と考えられ、正面(南側)の両脇に金剛力士像。(右側は阿形あ・ぎょう像・左側は吽形うん・ぎょう像)、背面(北側)の両脇には二天像(右側は増長天・左側は広目天)の仏法を守る仏像が安置されています。
Pic.護国寺 仁王門
Pic.護国寺 仁王門
仁王門を入ると、右側に木々に覆われ、鳥居がある小高い音羽富士塚が見えます。
音羽富士塚
寺の境内に富士塚があるのは音羽富士だけです。少なくとも200年以上前に作られたと言われます。高さ約7メートルで、頂上にある富士浅間神社の小祠まで登れます。
富士塚は富士信仰に基づき、古墳や地形などを利用して造営された富士山に模した塚です。江戸期では富士塚の上から富士山を望むことができるように築造されたようですが、現在では望むべくもありません。江戸時代の中期に富士信仰が盛んになると富士講が生まれ、富士塚も多数つくられて現在、都内には約50か所あると言われています。江戸市中の有名な富士塚は特に「江戸八富士」(後に七富士)と呼ばれ、護国寺の音羽富士塚もその一つです。
Pic.音羽富士塚の入り口
Pic.音羽富士塚の途中の登り道
Pic.音羽富士塚頂上の富士浅間神社の小祠
不老門
1938年(昭和13年)の建立で、三尾邦三氏の寄進。様式は京都の鞍馬寺の門を基本に設計され仁王門と本堂の中間に建立されました。また額面「不老」の二字は徳川家達公の筆によるものです。
Pic.不老門
観音堂(本堂)
観音堂(本堂)は、1697年(元禄10年)に観音堂新営の幕命があり、約半年余りの工事日数でこの大造営を完成しました。元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内随一のものと賞され、しかも震災・戦災と二度の大災害にも襲われながら姿も変えずに江戸の面影を今に伝えています。
Pic.護国寺 観音堂(本堂)
Pic.護国寺 観音堂(本堂)
月光殿(旧日光院客殿)
近江の三井寺の塔頭日光院の客殿を昭和3年に、現在の場所に移築。桃山時代の建造で書院様式を伝えるものとしてとても貴重な建物です。
Pic.月光殿(旧日光院客殿)
月光殿の傍にある多宝塔です。昭和13年4月の建立。塔は石山寺の多宝塔(国宝)の模写で、本尊は大日如来像が安置されています。
Pic.多宝塔
大仏(毘盧遮那仏)は、現在の筑波山神社の別当寺だった護持院が明治維新で廃寺となった際、金剛力士像・地蔵菩薩像・銅製多宝塔と共に筑波山から移されたものです。
Pic.大仏(毘盧遮那仏)
大隈重信の墓所
明治政府の最高首脳の一人。1898年と1914年に内閣総理大臣を 務めた。教育者としても早稲田大学を創設。1922年(大正11年)、 85歳で死去し国葬となりました。
Pic.大隈重信の墓所
Pic.大隈重信の墓所
三条実美の墓所
公家の尊王攘夷・討幕派の中心的人物であり、明治維新後は元勲の一人として要職を歴任。1891年(明治24年)、53歳で死去し国葬となりました。
Pic.三条実美の墓所
Pic.三条実美の墓所
山縣有朋の墓所
尊皇攘夷をいだき松下村塾に入塾。維新後は政府の要職を歴任、陸軍卿となり日本陸軍の実質的な建設者でした。1922年(大正11 年)、85歳で死去し国葬となりました。
Pic.山縣有朋の墓所
Pic.山縣有朋の墓所
ジョサイア・コンドル(建築家)の墓所
イギリスの建築家。工部大学校(現・東京大学工学部)の建築学教授として来日し、傍ら明治政府関連の建物の設計を手がけました。辰野金吾ら、創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築きました。ジョサイア・コンドル博士像は東京大学本郷キャンパスにあります。主な作品だけでも鹿鳴館、ニコライ堂、三菱一号館、 岩崎久弥茅町本邸、古河庭園大谷美術館、清泉女子大学本館があります。
Pic.ジョサイア・コンドルの墓所
音羽陸軍埋葬地英霊の塔
日清戦争以来の東京第一師団、近衛師団などの戦死者を埋葬してきました。戦後、護国寺によって規模が大幅に縮小された形になっています。
Pic.音羽陸軍埋葬地英霊の塔
Pic.音羽陸軍埋葬地英霊の塔
Pic.音羽陸軍埋葬地 多宝塔
護国寺の墓地から一旦外へ出て、首都高速5号池袋線の高架沿いにある「護国寺共葬墓地」という墓域まで歩きます。音羽陸軍埋葬地英霊の塔の方からでも、仁王門まで戻っていくこともできます。Googleマップのピンの位置は正確ですので、ピンを目指してください。
新選組隊士・谷口四郎兵衛の墓所
会津戦争後、仙台で新選組に入隊して箱館に渡った桑名藩士。箱館政権では差図役になり、土方歳三が救援に行こうとしていた弁天台場で戦っていて右肩を負傷、5月15日に降伏します。謹慎後に桑名藩預かりとなり、明治には斎藤一と同じく警視庁に入っています。西南戦争では「新選旅団」として出征し薩摩軍と戦っています。明治43年、71歳で死去。
Pic.新選組隊士・谷口四郎兵衛の墓