東京街歩きコース内容

東京街歩き 119散歩コース&マップの詳細内容

D-1-08 坂と歴史の町-8 高輪 三田

このコースはフリーダウンロードできます。

港区は武蔵野台地の東端にあたる高地と、東京湾に面する埋立て地の低地から成っています。西北の内陸が高く東南の海側が低い、全体的に傾斜した地形になっていいることが都内でも有数の坂の町となっている訳です。

高輪はまさに武蔵野台地の東端にあたり、起伏のある大地の地形を示しています。一方、品川から三田に至るJRを境にして東京湾側はかつての海岸線や埋め立ての低地がよく見てとれ、対照的な地形になっています。このコースは高輪を中心に品川から三田に至る起伏のある台地の縁を歩き、今に残る名坂と史跡を辿ります。

このコースは、ブログ「高輪、三田の街歩きウォーキング (概要編)」に実際の街歩きレポートがありますので、是非参照してください。リンクをクリックすると別ウインドーで開きます。


主な史跡抜粋

カトリック高輪教会
江戸の殉教者顕彰碑
江戸の大殉教といわれ、迫害を受け殉教した人の慰霊碑があります。徳川家光はキリシタン迫害政策を強化し厳重にしました。 1623年(元和9年)、宣教師を含む信者50名は小伝馬町の牢から江戸市中を引き回され火刑に処せられました。

旧竹田宮邸洋館
1911年(明治44年) 竹田宮恒久王の邸宅として建てられました。天然スレート葺き屋根のルネサンス建築。日本の明治初期における近代建築の先駆けです。

光福寺 ゆうれい地蔵
この地蔵は死んだ母親に代わって子どもを育てたという言い伝えがあり「子安地蔵」として境内に祀られています。

高輪教会
1932年(昭和7年)の竣工。フランク•ロ イド•ライトの門下であった岡見健彦の設計。日本で最初に建てられたライト式建築の会堂です。

大久保利通 高輪別邸跡
この一帯は大久保山とも呼ばれ、主のいなくなった大名屋敷跡を利用して三万坪にも及ぶ大久保の別荘がありました。大久保利通を祀る祠があります。

東禅寺
イギリス公使館をおいた時の弾痕
大名墓群
18年間に渡って駐在し外交をリードした公使のパークスは内政不干渉の立場ながら維新の志士たちとも積極的に接触しました。新政府軍の江戸城総攻撃に反対し江戸無血開城の一因となったとも言われています。攘夷派志士が襲撃した刀傷や弾痕が奥書院や玄関の柱に今でも残っています。

柴田錬三郎旧居
歴史小説に新風を送ったことで業績は名高く、代表作に「眠狂四郎」など。昭和53年没で、当時の豪邸が当時のまま残っています。

高輪海岸の石垣石
1995年の発掘調査により、 江戸時代に高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられた石が発見されました。

高輪大木戸跡
江戸時代中期に江戸の治安維持のため、柵状の門が設置されました。現存する大木戸はここだけで、伊能忠敬が日本地図作成の測量の起点がこの大木戸でした。

泉岳寺
大石内蔵助良雄銅像
浅野長矩公之墓
長矩公夫人之墓
大石主税之墓
赤穂浪士四十七士墓所
赤穂義士記念館 (有料)
大石内蔵助良雄墓
首洗い井戸
1612年(慶長17年)に徳川家康が創建。泉岳寺は赤穂藩浅野家の菩提寺でした。寛永の大火で焼失し、再建されました。

大石良雄外十六人忠烈の跡
かつて熊本藩細川家下屋敷がありました。内蔵助良雄ら17人が屋敷にお預けとなり、この地で切腹したといいます。赤穂浪士は厚遇されたといいます。

長松寺
荻生徂徠の墓
江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者で、徳川吉宗に重用されました。赤穂浪士の切腹を進言したといいます。

薬王寺
加賀千代女の井戸
俳人加賀千代は諸国歴遊の途中に立ち寄り、「朝顔につるべ取られてもらい水」と詠みました。

慶應義塾大学
福澤諭吉像 (三田キャンパス)
福沢諭吉終焉の地
三田演説館
慶應義塾図書館 旧館
塾監局
中津藩藩士であった福沢諭吉は江戸築地鉄砲洲の中津藩中屋敷内に蘭学塾を創設。1868年(慶応4年)には蘭学塾を慶應義塾と名づけました。1871年(明治4年) この地に移転した際に諭吉の邸宅とした場所です。

薩摩藩上屋敷跡
薩摩藩の江戸屋敷はここ三田の上屋敷のほか、中屋敷(幸橋門内)、下屋敷(高輪)、西郷・勝の会談が行われた蔵屋敷(田町) などがありました。
薩摩藩上屋敷跡
江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地碑があります。高輪の薩摩藩下屋敷で第1回目の会談が、続いてこの薩摩蔵屋敷で会談がもたれ合意したといいます。

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CATEGORIES

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コース経路

Start JR品川駅高輪口→→End JR田町駅

ウォーキング距離と歩数

17km 26000歩