Th-08 軍都だった東京の遺構
江戸の大名屋敷跡の広大な土地は明治期に入ると政府に収用され、富国強兵の政策のもとで多くは陸軍の用地となりました。かつて東京にあった軍施設の面積は世界でも類を見ないほどで、まさに軍都東京でした。
主なポイント抜粋
皇居周辺
旗山の碑(海軍発祥の地)
海軍本省が1872年(明治5年)に創立され、海軍卿旗を掲揚し「旗山」と呼ばれました。後に水神社境内に海軍発祥の「旗山の碑」が設置されました。
海軍軍医学校跡の碑
1873年(明治6年)、海軍病院付属学舎として創立。1929年(昭和4年)に築地に新築移転され、現在は国立がん研究センター中央病院となっています。
九段会館(226事件戒厳司令部)
旧称は軍人会館。 226事件で戒厳司令部 が置かれた建物です。再開発により既に解体され、城郭風の様式を残した腹巻ビルに2022年に建替え予定とのことです。
近衛歩兵第一連隊碑
近衛歩兵第二連隊碑
北の丸は江戸中期は田安、清水徳川家が上屋敷を構え、明治からは近衛師団司令部、兵営地が設置されました。
旧近衛師団司令部
1910年(明治43)に竣工。震災や空襲に 耐えた数少ない明治洋風建築です。当時は近衛兵になることは大変な名誉でした。 北白川宮能久親王銅像も必見です。
高射機関銃の台座
戦争末期にB29の空襲から皇居を防衛するために築かれた高射砲の砲台座7基がひっそりと現存しています。
旧陸軍軍医本部(最高裁判所)
裸婦像 (旧寺内正毅総理大臣像)
かつてここに陸軍軍医本部と寺内元帥騎馬像がありました。裸婦像は戦後に電通が作った広告功労者顕彰の記念碑です。
国会前庭
旧陸軍省参謀本部
日本水準原点
この地に陸軍参謀本部がありました。水準原点は参謀本部陸地測量部(国土地理院の前身)の痕跡です。明治期の数少ない近代洋風建築として貴重です。
近衛第三連隊跡碑
近衛師団にもかかわらず226事件に将兵 の一部が参加し、大蔵大臣高橋是清を殺害した部隊です。ここの兵舎から出撃しました。
歩一の碑
歩一とは陸軍第一師団歩兵第一連隊の略称で、226事件で多数の将兵が参加した部隊です。旧防衛庁から東京ミッドタウンに再開発され、碑が移築されました。
国立新美術館
第一師団歩兵第三連隊兵舎
226事件で反乱将校らがこの兵舎から出撃しました。兵舎建築としては日本初の本格的な鉄筋コンクリート造りでした。1928年(昭和3年)に建てられた兵舎は戦後、旧東大生産技術研究所として使われました。旧兵舎は取壊され、一部が「国立新美術館別館」として保存されています。国立新美術館の中に兵舎のジオラマがあります。
御所トンネル(丸の内線ホームから)
1894年(明治27年)、陸軍の強い要望により青山練兵場を経由するルートで新宿駅~飯田橋駅間が延伸されました。現在の中央線です。反対が多い中で陸軍のゴリ押しにより、畏れ多くも赤坂御料地の敷地の一部にトンネルを敷設しました。丸の内線四ツ谷駅の荻窪方面ホーム後方から見えます。
文京・新宿
陸軍砲兵工科学校跡
1872年フランス陸軍のルボン大尉が小石川に伝諸工集会所を開設、1896年(明治29年)に陸軍砲兵学校となりました。諸工伝習所跡の石碑もあります。
旧東京砲兵工廠射撃場
水戸藩江戸上屋敷跡に作られた東京砲兵工廠の試射試験場です。主に三八式歩兵銃等の小銃の試射試験場で、トンネルの全長は230mあったといいます。
東京工廠跡 基礎レンガ
東京ドームホテルの裏側に東京砲兵工廠 の土台であった基礎レンガが展示されています。建設の際に地下5mからやっと取り出したものです。
東京工廠跡記念碑
関東大震災によりその工場等施設は打撃を受け、1933年(昭和8年)に九州の小倉に移転しました。工廠が移転した際に陸軍によって昭和10年に建てられた記念碑です。
東京工廠跡 弾丸製造機の部品
後楽園の内部、説明板はありませんが、九八屋の前に円盤状のものが造弾器の一部といわれています。
護国寺
音羽陸軍埋葬地英霊の塔
日清戦争以来の東京第一師団、近衛師団などの戦死者を埋葬。戦後、護国寺によって縮小された形になっています。
明治天皇射的砲術天覧所跡
1882年(明治15年)に近衛射的場が完成しました。明治天皇の行幸があり境内よりその射撃演習を天覧になられました。
射撃場土塁の跡
近衛射的場が作られ、周りは土塁で囲まれていました。その土塁の形跡が地形から読み取れます。
戸山・野外演奏場跡
陸軍戸山学校の野外演奏場跡です。陸軍戸山学校では軍楽隊の訓練も行われていました。
箱根山 (陸軍戸山学校)
1873年(明治6年)に旧尾張藩下屋敷跡に陸軍兵学寮戸山出張所が設置され、陸軍戸山学校と改称されて終戦まで存続していました。
旧陸軍将校会議室跡
戸山学校の将校集会所として使われていたという建物が現存しています。半地下式石造りの部分が将校集会所の跡とされています。現在は戸山教会・戸山幼稚園として使用されています。
板橋・十条
陸軍砲兵本厰 板橋火薬製造所
発射管の標的(射垜)
弾道検査管
燃焼実験室
付帯試験室
電気軌道トロッコ線路跡
1876年(明治9年)に加賀藩江戸下屋敷の広大な跡地に石神井川の水力を利用した火薬工場が発足、1940年(昭和15年)東京第二陸軍造兵廠に改編されました。板橋火薬製造所跡の加賀公園は2025年度完成の予定で史跡公園化の工事中です。現況を確認してください。
圧磨機 圧輪
実際に石神井川の水を利用して火薬製造に使用されていた実物で、1922年(大正11年)に陸軍省が設置したものです。
陸軍の星マーク消火栓 (道路から見えます)
金沢小学校の校庭隅に当時の陸軍の消火栓が残っています。
二造建物のモニュメント
レンガパークに陸軍板橋火薬製造所の大正期の煉瓦造建屋の一部をモニュメントとして保存してあります。
二造時代の建物 (6棟~)
二造で使用された煉瓦造の建物が数棟現存しており、モルタル塗りされていますが一部は現在も使われています。
造兵廠トロッコ線路跡
往時の軍用鉄道(トロッコ)跨線橋の台座跡が埼京線にかかる十条台橋から見えます。1905年(明治38年)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡です。
十条駐屯地 正門のレンガ
三角屋根レンガモニュメント
一造は大正期にかけて建設された赤煉瓦建築物が50棟以上連なっていました。十条駐屯地の正門は一造の煉瓦倉庫の煉瓦を再利用して建築されました。モニュメントは1918年(大正7年)変圧所として建設された254号建物の一部を利用し作られたものです。
造兵廠の殉職慰霊碑
陸軍造兵廠東京工廠職員殉職者を祀る慰霊碑です。細部は不明で、裏面の碑文等刻印は全て削られて消去されています。
第一造兵廠の復元建物
1919年(大正8年)竣工の一造の赤レンガ倉庫275号棟を北区中央図書館として復元、2008年に保存、再活用しています。
第一造兵廠本部建物(旧王子キャンプ)
1930年(昭和5年)竣工。当初は茶のタイルでしたが、戦後に米軍が接収しキャンプ王子となり、白く塗ってしまったといいます。ベトナム戦争の米軍王子野戦病 院が開設されたのは有名です。
通称憲兵小屋
このコンクリートの建屋は「憲兵詰所」の遺構とされています。真偽は不明で、十条の東京第一陸軍造兵廠と滝野川の分工場を結ぶ道沿いにあたります。
神宮・世田谷
旧野砲兵第一連隊の兵舎
かつての第一師団野砲兵第一連隊の木造 平屋建の兵舎が現存し、原形をとどめながら実際に使われています。
馬魂碑
野砲兵第一連隊があった場所に昭和14年建立。野砲を牽引する為に馬の力が必要で、砲兵と軍馬の繋がりも深く憐憫に溢れた慰霊の碑です。
旧糧秣廠 馬糧倉庫
外装は改修されていますが骨組は往時のものを活かしていて、倉庫の外形は保たれています。
騎兵第一連隊址
階段を登った先の公園は騎兵山と呼ばれ、騎兵第一連隊が駐屯していました。 騎兵第一連隊址、戦死病没者表忠碑が建立されています。
馬神の碑
1930年(昭和5年)の建立。戦没した馬たちの霊を祀っています。騎兵にとって馬は何よりも大切な存在でした。
陸軍乗馬学校 天覧台の碑
1928年(昭和3年)の建立。明治天皇11 回、大正天皇4回にわたり陸軍乗馬学校卒業馬術展覧のため行幸なされて、この場所で天覧されました。
近衛歩兵第四、第六連隊碑
青山に展開していた近衛部隊です。碑がありましたが、オリンピック開催による工事後の状況は不明です。
学徒出陣壮行の地碑
1943年(昭和18年)に兵力不足を補うため高等教育機関に在 籍する20歳以上の文科系学生を徴兵し出征させました。旧 国立競技場の前身の明治神宮外苑競技場で開催された映像は胸に迫るものがあります。新国立競技場になって碑が戻って設置されました。駅側の正面A1ゲート近くのようです。
明治天皇大喪の礼葬場殿跡
1912年(明治45年)明治天皇が崩御しました。葬儀が青山練兵場で行われ、御柩車が置かれた葬場殿のあとです。中央の大木は記念して植えられた楠の木です。
明治天皇の御観兵榎
青山練兵場では明治天皇の臨席のもとに観兵式が行われていました。いつもこの榎の前方に御座所が設けられました。現在の榎は二代目です。
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