東京レトロ街歩きガイド&マップ

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Th-02 江戸の五街道四宿

江戸五街道とは、日本橋を起点に伸びる東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五つを指した陸上の幹線道です。1601年(慶長6年)に徳川家康が整備し始め、2代将軍秀忠の代になって基幹街道に定められました。

主なポイント抜粋

東海道 品川宿

高輪大木戸
江戸時代中期に治安維持のため柵状の門が設置されました。現存する大木戸はここだけで、伊能忠敬が日本地図作成の測量の起点がこの大木戸でした。

旧東海道品川宿 入口
踏切の南側に旧東海道の石碑があります。ここから旧東海道の品川宿です。

問答河岸跡
三代将軍徳川家光が東海寺に訪れた際、沢庵和尚がこの辺りまで出迎えて禅問答をしたといいます。

土蔵相模跡
有数の規模を誇った妓楼で、高杉晋作、伊藤博文ら幕末の志士たちが密儀を行ったとか、桜田門外の変で襲撃した水戸浪士がここで訣別の宴を催したといいます。

船溜り
江戸城へ魚を納める漁村に決められていました。豊富な水揚げを誇り、海苔の産地でした。現在ではつり船や屋形船が並んでいます。

利田神社(洲崎の弁財天)
鯨塚の石碑
江戸前期に沢庵和尚が弁財天(洲崎弁天)を祀ったことが始まりと伝わっています。海に突き出た砂洲にありました。江戸中の評判となった「寛政の鯨」の骨を埋めた上に建てられた供養碑です。

品川台場(御殿山下砲台跡)
1853年ペリー来航に衝撃を受けた幕府は江戸内湾防御のために品川台場の築造し、154門の大砲が備えられました。

善福寺
1294年(永仁2)の開山。本堂など傷みが進んでいるが、空襲被害も免れ昔ながらの面影を残している。

法禅寺
法禅寺は、至徳元年(1384)の開創。5代将軍・徳川綱吉の生母桂昌院の帰依を受けて格式ある寺院として整備され、天保の大飢饉で亡くなった人たちを祀る供養塔があります。
法善寺のイチョウ
推定の樹齢は約400年、幹の囲りは3.4m、高さは25mの古木。

養願寺
1299年(正安元年)の創建。東海七福神の布袋様を祀っています。商店街から続く「虚空蔵横丁の煉瓦塀」は趣きがあり必見です。

品川宿本陣跡 (聖蹟公園)
東海道品川宿の本陣跡。明治元年の明治天皇東幸の際に行在所となったため「聖蹟公園」という名がついています。

品川神社
品川富士(富士塚)
板垣退助の墓所(墓石)
1187年(文治3年)源頼朝により創始。徳川歴代将軍より庇護を受けました。東海七福神の大黒天を祀っています。富士塚は江戸七富士の一つです。

東海寺(沢庵禅師)
家光により沢庵宗彭を招聘創建され、元禄7年の全焼後にはすぐに5代将軍綱吉によって再建され広大な寺域を有していました。東海寺大山墓地には有名人お墓所があります。
沢庵和尚の墓所
賀茂真淵の墓所
井上勝の墓所

願行寺 縛り地蔵
1652年(承応元年)の作で、縄で縛ると地蔵が苦しみを代行してくれるといわれています。

海蔵寺
1298年(永仁6年)の開山。鈴ヶ森で刑死した罪人、飯盛女、身寄りのない人などの無縁仏を供養する投げ込み寺の役割を果たしていました。

品川寺 江戸六地蔵
品川寺のイチョウ
洋行帰りの鐘
大同年間(806年)開創と言われ品川区で最も古いお寺です。大梵鐘はパリ万博出品後に行方不明となり60年後に里帰りしたもの。イチョウの樹齢は約600年といわれています。

海晏寺
岩倉具視の墓所
本尊の観音像は、品川沖でかかった鮫の腹から出たと伝えられ、「鮫洲」という地名の由来となりました。

坂本龍馬像
浜川砲台跡
2010年作成のブロンズ像で、龍馬が立会川にいたと思われる20歳頃の顔を再現しています。土佐藩下屋敷があった所。ペリー再来航後に立会川河口に砲台が設置されました。龍馬も警護についていました。

泪橋
鈴ヶ森刑場跡
1651年(慶安4)に設置されました。見せしめのため通行人の多い東海道沿いに設置されたと言われています。

甲州街道 内藤新宿

内藤新宿の復元模型(新宿歴史博物館 有料)
内藤新宿の大きなジオラマ模型が展示されています。

西迎寺
1490年(延徳2年)の開山。大田道灌の菩提を弔うために創建されました。境内には露坐の阿弥陀如来像があります。

西念寺 服部半蔵の墓所
1594年(文禄3年)服部正成(半蔵)が開基した寺で、服部氏の菩提寺です。伊賀衆の組頭で、代々「半蔵」を名乗りました。伊賀忍者だったのは初代の服部半蔵だけといいます。

戒行寺 長谷川平蔵供養塔
鬼平犯科帳の主人公、火付盗賊改の鬼平こと長谷川平蔵の供養碑です。1795年(寛政7年)退き、直後に50歳で亡くなりました。

勝興寺 首切り役人 山田浅右衛門の墓所
御様御用は刀剣の試し斬りを行う役職で、罪人の死刑執行人を兼ねていました。山田家の当主は代々、山田浅右衛門を名乗り「首切り浅右衛門」と呼ばれていたそうです。6代目は吉田松陰、橋本左内ら安政の大獄の犠牲者の処刑を行いました。

須賀神社
アニメ映画「君の名は」でラストシーンでは須賀神社男坂の階段が描かれ聖地となっています。

東福院
1611年(慶長16年)に開山、1634年(寛永 11年)に現在地に移転しました。境内には豆腐地蔵と呼ばれる左手首から先が欠けた地蔵菩薩像があります。

於岩稲荷陽運寺
昭和初期に創建。田宮神社が移転したとき地元の名物が無くなって困った地元の有志が創建したといいます。境内にはお岩様ゆかりの井戸があります。
お岩稲荷田宮神社
創建年代は不明。四谷怪談が広く知られ、お岩信仰が盛んになったといいます。明治に火災で移転したが、昭和27年再建されました。

玉川上水余水吐跡
四谷大木戸におかれた水番屋は、多摩川から引かれた水を江戸市中に運ぶ玉川上水終着点。大木戸からは万年石樋と呼ばれる石でできた樋の中を水が流れる暗渠となって江戸の町を流れていきました。

四谷大木戸跡
1616年(元和2年)、江戸への出入り口として大木戸が設けられました。門は夜になると木戸を閉めていましたが、1792年に大木戸は撤去されました。

新宿御苑の大木戸門
昭和2年に建てられたもので、戦災も免れ、当時の独特のデザイン性や歴史的価値が高く、皇室御料地であったことを覗わせる貴重な建物です。

太宗寺 江戸六地蔵
塩かけ地蔵
閻魔像 奪衣婆像
高遠藩内藤家墓所
切支丹灯篭
1668年(寛文8)に信州高遠藩主・内藤家から土地の寄進を受けて創建され、内藤家の菩提寺として繁栄しました。内藤新宿の中心的存在です。

正受院 奪衣婆象
1594年(文禄3年)の開山。境内には針塚、1942年(昭和17年)に太平洋戦争による金属供出のため失われ、奇跡的に戻った梵鐘などがあります。奪衣婆像は「綿のおばば」と呼ばれ、民衆の信仰を集めました。

成覚寺 飯盛女の投げ込み寺
子供合埋碑
1594年(文禄3年)の創建。岡場所として繁栄した内藤新宿の飯盛女たちの投げ込み寺でした。奉公途中に死んだ飯盛女は俵に詰められ投げ込まれたといい、葬られた人数は3000人余りとも伝われます。飯盛女たちの供養碑でです。「子供」というのは旅籠の主が飯盛女たちを子供と呼んだためです。

中山道 板橋宿

志村一里塚
2基一対の塚の石垣と榎がほぼ完全な形で保たれており、最も保存状態のよい一里塚跡の一つとして知られています。

縁切榎
江戸時代から悪縁を切ってくれるというので崇敬を集め、板橋宿の名所でした。皇女和宮の江戸入りの際は縁起が悪いとのことで迂回したといいます。

仲宿本陣跡
本陣には、参勤交代で通行した大名や、幕府の公用の武士、僧や公家などが休憩しました。屋敷の当主は、代々飯田新左衛門を名乗りました。

文殊院 遊女の投げ込み寺
1625年(寛永2年)延命地蔵を祀るお堂を 寺院としたのが始まり。板橋宿本陣を勤めた飯田家の菩提寺で、遊女を弔ったお墓があります。

板橋宿本陣跡
飯田新左衛門家が務めた本陣跡。皇女和 宮は江戸城に入る前夜をここで過ごしたといいます。失火によって焼失して碑のみがあります。

遍照寺 馬頭観音
江戸以前の創建とされ、宿場の馬つなぎ場となって多くの馬が常備され、ここで開かれる馬市がありました。1798年(寛政10年)に建立の馬頭観音像が馬市の名残を留めています。

平尾宿脇本陣跡
豊田家は平尾宿の名主と脇本陣を兼ねた地元の旧家で、この地に豊田市右衛門家の屋敷がありました。

観明寺 加賀藩主前田家の山門と稲荷
1338年(建武5年)の板碑から室町時代初期の創建。1661年建立の庚申塔は都内最古の一つです。山門と豊川出世稲荷堂は加賀藩下屋敷より移築したものです。

近藤勇の墓
永倉新八が発起人となり明治9年に建てられた墓です。函館で戦死した土方歳三をはじめ新撰組隊士と共に墓が建てられています。

西方寺 新吉原の高尾大夫の墓所
移転前は吉原に近く遊女の投げ込み寺でした。その名残りで二代目高尾太夫の墓があります。

妙行寺
瑤泉院の供養塔
四谷怪談お岩の墓所
1604年(慶長9年)に麹町清水谷にて創建。1909年(明治42 年)に当地に移転しました。他にうなぎ供養塔、魚がし供養塔、浄行様があります。

日光(奥州)街道 千住宿

千住宿復元ミニチュア模型
北千住マルイ10Fに足立区立郷土博物館の千住宿復元ミニチュア模型が展示されています。

安養院
北条時頼の開基いわれています。徳川将軍は鷹狩で度々訪れて「御膳所」としていました。カンカン地蔵と呼ばれる地蔵があります。

千住絵馬屋・吉田屋
代々東斎を名乗り、小柄の愛らしい千住絵馬を作っています。吉田絵馬屋は現在で8代目にあたります。

横山家住宅(紙問屋松屋)
江戸時代後期の建造物で、宿場町だった千住の名残を今に伝えています。江戸時代から続く富裕な地すき紙問屋で、屋号を「松屋」といいました。

千住本氷川神社
1307年(徳治2年)の創建。ラジオ体操発祥の地碑があります。昭和27年に小学校の夏休みのラジオ体操に境内を貸したのが始まり。

千住宿本陣跡
日光社参や仙台藩伊達家など大名の参勤交代で宿泊や休憩するため本陣が設けられました。石柱と説明板があります。

勝専寺
1224年(元仁元年)の開基。千手観音像が網にかかったのが寺の由緒で、地名「千住」の由来といわれているます。本堂は明治時代建造の独特の作りです。

千住高札場跡石碑
高札場は宿場の出入口に設置され、宿場の掟などを人々に周知させるための掲示がなされていました。

千住一里塚跡
一里塚は明治にはすでに消滅していたようです。現在は碑のみがあります。

河原町稲荷神社
やっちゃ場の鎮守でした。鳥居、神輿、狛犬、天水槽は、やっちゃ場の隆盛と信仰の文化を今に伝える貴重な遺構です。
やっちゃ場 追想
大正・昭和初期のやっちゃ場の様子が描写された案内板が設 置されています。
やっちゃ場跡(昔の青果市場)
「やっちゃ」とはセリの掛け声です。千住大橋の架橋によって発展して市場を形成し、神田・駒込と並び江戸の三大市場と称されるまでになりました。

千住宿奥の細道プチテラス
芭蕉生誕360年にあたり旧日光街道中の 入口に「奥の細道」への旅立ちを記念して作られました。史跡ではありません。
奥の細道矢立初の碑
芭蕉は1689年(元禄2年)に弟子の曾良を伴って両国から千住に降り立ち、陸奥へ旅立ちました。旅の始まりの句を詠んだ場所です。

千住大橋
1594年(文禄3年)に千住大橋が隅田川最初の橋として架橋されました。現在の鉄橋は1927年(昭和2年)に架橋され、昭和48年にさらに接して新橋が作られています。

素盞雄神社 松尾芭蕉の碑
芭蕉も「奥の細道」への旅立ちの際に旅先の無事を祈願したといいます。

橋本左内の墓 旧鞘堂
1933年(昭和8年)に橋本左内の墓を保護するために造られました。近代仏教建築として貴重です。元々は回向院の墓にありました。

円通寺
旧上野寛永寺の黒門
彰義隊士の墓
この寺の住職が放置されていた彰義隊の死者を寛永寺で火葬をして寺に埋葬しました。火葬を行った場所の近くの寛永寺の黒門が弾痕が残ったまま移築されています。
よしのぶ地蔵
戦後最大の誘拐事件といわれた吉展ちゃん事件の遺体発見現場でもあります。

小塚原回向院
吉田松陰の墓石/橋本左内の墓
1859年(安政6年)、安政の大獄により吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎などは伝馬町牢屋敷で斬首となりました。その後、遺体は引き取られ回向院に埋葬されました。
観臓記念碑
前野良沢、杉田玄白らが刑死者の腑分に立合い、解体新書を翻訳出版した記念碑です。
延命寺(小塚原刑場跡) 首切り地蔵
小塚原刑場は1651年(慶安4年)に今の延命寺のあたりに設置されました。延命寺は回向院の子院です。

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