東京レトロ街歩きガイド&マップ

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Th-01 江戸城を極める

江戸城は1457年に麹町台地の東端に太田道灌が築いた城でした。1590年に徳川家康が江戸城に入城し、さらに江戸幕府が開幕すると諸大名に命じて日比谷入江の埋立、神田川拡幅工事など大規模な拡張工事が行われました。江戸城には推定では5000人の男性が常駐し、さらに大奥には1000人の婦女子がいたとされています。

主なポイント抜粋

東御苑・外苑

大手門
江戸城の正門。1945年(昭和20年)に空襲 によって焼失。1963年(昭和38年)に木造復元により再建されました。

旧三の丸 三の丸尚蔵館
御所で用いた調度品、華族、賓客などから献納された美術品などを展示しています。(新館2025年完成予定)

大手三之門跡
三の丸尚蔵館の前を過ぎた正面に大手三の門跡の石垣のみが現存しています。

同心番所
百人番所
大手三之門を警護していた門。鉄砲百人組と呼ばれる同 心100人が昼夜交代で警護に当たりました。
中之門跡
中之門石垣は江戸城の中でも最大級の巨石が使用され、 目地がなく水平に積んだ布積みの美しい石垣です。
大番所
本丸へと通じる中之門警備のための詰所で、最後の番所として位の高い与力、同心が警護していました。

二の丸庭園
家光の命で1630年(寛永7)に茶会のための庭園を造成。昭和43年に復元されたものです。

天守台
江戸城の天守は1638年に将軍家光が改修し完成。しかし明暦の大火で焼失しました。天守の再建は断念、天守台だけが残りました。

松の大廊下跡
江戸城内にあった大廊下のひとつ。浅野長矩がこの廊下で吉良義央に斬りつけた事件があまりにも有名です。

富士見櫓
現在のものは明暦の大火の後(1659年) に再建されたもの。それ以後、この富士見櫓が天守の代わりになりました。

平川門
枡形門で木橋が往時のように残されるのは江戸城でもここだけです。罪人や死者を城外に出すときに使われた不浄門と言われています。
和気清麻呂像
和気清麻呂像は、昭和15年、紀元2600年記念事業として建立、楠公銅像とともに文武の二忠臣を象徴したものです。
震災イチョウ

江戸城築城の碑
太田道灌の追慕碑です。1457年(長録元年)太田氏はわずか1年で江戸城を築城したといわれています。

和田倉門
行幸通り
和田倉門は現在、石垣のみが残されています。門前の和田倉橋は江戸城木橋の形を復元した貴重な木橋です。行幸通りは皇室行事と外国大使の信任状捧呈式の馬車列が東京駅から皇居に向かうときのみ利用されています。

桜田巽櫓
本丸の東南が名の由来です。江戸城で現存する唯一の二重の隅櫓で、震災で損壊したのちに解体して復元されました。

坂下門
江戸城西の丸造営で築かれた門。老中安藤信正が水戸浪士に襲われた坂下門外の変は有名です。

二重橋 伏見櫓
皇居前広場から二重橋越しに伏見櫓を眺めることができます。皇居を代表する象徴的な風景になっています。

楠木正成像
楠木正成像は別子銅山開坑200周年事業として住友から宮内庁に献納されもので、東京美術学校の高村光雲らに依頼。

桜田門(外桜田門)
外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造になっており桝形を構成しています。水戸藩浪士らによる大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が有名です。

内堀・北の丸

清水門
推定では1607年(慶長12年)の建立とされ、国の重要文化財です。北の丸への出入口として利用されました。

北の丸公園
北の丸は江戸中期は田安、清水徳川家が上屋敷を構え、明治からは近衛師団司令部、兵営地が設置されました。
吉田茂像
1981年(昭和56年)に生誕100年に際し閣議の了解を得て建立されました。
北白川宮能久親王銅像
明治天皇の義理の叔父。戊辰戦争では幕府側について新政府軍と戦いました。1895年(明治28年)には近衛師団長として台湾に出征、現地で死去しました。
旧近衛師団司令部庁舎
1910年(明治43)に竣工。震災や空襲に耐えた数少ない明治洋風建築です。当時、近衛兵になることは大変な名誉でした。
近衛歩兵第二聯隊記念碑
近衛歩兵第一聯隊記念碑
平時は天皇や宮城の警護に当たり、戦時には戦闘に参加。帝国陸軍では初めて軍旗が近歩1及び近歩2に与えられました。

田安門
彌生慰霊堂
田安門は1636年(寛永13年)に建立。弥生慰霊堂は警視庁及び東京消防庁の殉職者を祀っています。

高燈篭 (常燈明台)
靖国神社正面の常夜灯として1871年(明治4年)に建設されました。当時、品川沖の船にとっては灯台の役目も果たしてい ました。
品川弥二郎 像
元長州藩士。高杉晋作らと英国公使館焼き討ちなどを実行し薩長同盟の成立に尽力。維新後は欧州へ留学し明治政府の内務大臣などに就任しました。
大山巌 像
元薩摩藩士。戊辰戦争では各地を転戦、維新後は欧州へ留学しました。西南戦争をはじめ士族反乱を鎮圧し、陸軍大将、内大臣などを歴任しました。

千鳥ケ淵戦没者墓苑
日中戦争、太平洋戦争で死亡した身元不 明や引取り手のない遺骨を安置、無名戦没者の墓とも呼ばれます。宗教宗派に属さない施設です。

高射砲陣地跡
戦争末期に皇居を防衛するために築かれた高射砲の砲台座7基が現存しています。

半蔵門
空襲で旧来の門は焼失し、現在の門は和田倉門の高麗門を移築したものです。隠居した先代将軍や将軍継嗣などの住居とされた吹上御庭に通じていました。

三宅坂
田原藩三宅家の上屋敷がありました。三宅坂は皇居内堀に沿って続く緩やかな坂道で、江戸時代から景勝地として知られていました。

外堀

旧跡 両国広小路
明暦の大火後に火除地として両国橋の両岸に作られ、見せ物小屋が並び江戸一の繁華街でした。対岸にも両国広小路の碑があります。
両国橋
1657年の明暦の大火の犠牲を契機に架けられました。現在の橋は1932年(昭和7年)竣工。ガードレール部分や柱部の装飾が凝ったつくりになっています。

浅草見附
ここまでが江戸城です。碑があるのみです。明暦の大火では囚人の逃走をふせぐために門を閉め切ってしまったことが犠牲を拡大させたといいます。

筋違見附
加賀藩主前田利常によって寛永16年に完成しました。筋違とは中山道と上野寛永寺へ向かう御成街道が交差することから付けらました。説明板のみあります。

御茶ノ水記念碑
鷹狩りで2代将軍秀忠がこの近くの高林寺境内の名水で茶を点て、気に入ったことから地名となりました。

神田上水懸樋跡
江戸時代に神田上水が神田川を跨ぐ地点に設置されていた懸樋。木樋や石樋が主に使われました。水道橋と水道橋駅の由来になりました。

小石川見附
水戸藩徳川家は、明暦の大火後に小石川 後楽園に屋敷を移されこの門を守りました。遺構も説明板も無いようです。

牛込見附
外濠に面した見附のなかでも、江戸の遺構がもっともよく残ります。1639年(寛永16)、徳島藩によって築かれました。田安門を起点とする上州道の要衝でした。

市ヶ谷御門橋台の石垣石の碑
市ヶ谷見附跡
市ヶ谷御門橋台に築かれていた石垣の一部が残っています。御手伝普請で石垣を築いた大名家や職人の印と考えられる刻印が刻まれています。

江戸歴史散歩コーナー
東京メトロ南北線のコンコース内に石垣などの展示コーナーがあります。遺構ではありませんが一見の価値ありです。地下鉄建設工事の際に江戸城外濠の石垣の石材が発掘され、それを使って復元した石垣が展示してあります。

四谷見附
1636年(寛永13)、長州藩によって築かれました。半蔵門から甲州街道に至る将軍の脱出ルートとして想定されていた要衝に築かれた枡形門です。

四谷見附 真田堀跡
真田藩が築いた真田掘は戦災の瓦礫で埋め立てられ、上智大学に永久貸与されて運動場となっています。

喰違見附
清水坂から紀州家中屋敷に行く喰違土手の前にあることからの命名。石垣ではなく土塁を築く形で城門は存在しませんでした。碑があります。
尾張名古屋藩屋敷跡
上智大学一帯は徳川御三家のひとつ尾張徳川家の中屋敷でした。幕末隠居の住まいなどとして使用されました。

紀尾井坂
南側に紀州徳川家、北側には尾張徳川家と彦根藩井伊家の三家があったところから紀尾井と呼ばれました。
近江彦根藩井伊家屋敷跡
ホテルニューオータニの一帯は彦根藩井伊家の中屋敷でした。今も残る庭園は400余年の歴史を誇る名園です。

紀伊国坂 (赤坂)
坂の西側に紀州藩上屋敷があったことから名付けられました。別名は赤坂で地名の由来になった坂です。
赤坂見附 赤坂御門の石垣と刻印
1636年(寛永13年)に福岡藩によって築かれたものです。両側には弁慶堀、溜池が水を湛えていました。明治時代の道路拡幅工事で解体、一部石垣が残っています。

溜池発祥の碑
溜池は江戸城の防備をかねて外堀兼用の上水道の水源として堰き止めた池で、不忍池に匹敵する江戸の名所でした。明治21年には完全に埋め立てられました。
江戸城外堀跡 溜池櫓台
この櫓台は1636年、因幡鳥取藩によって構築されたとあります。溜池一帯を見下ろす位置にありました。石垣の一部が現存しています。

江戸城外堀跡地下展示室
佐賀藩によって作られた外堀石垣が復元され、展示されています。石垣表面には矢穴や大名家の刻印が見られます。

虎ノ門記念碑
佐賀藩によって築かれた虎ノ門があった場所です。明治初期に撤去されましたが地名として残りました。

山下橋門
山下橋門は高松藩が担当、江戸城の門の中では最も小さい門だったそうです。JRガード下に案内板のみあります。

数寄屋橋門
1629年(寛永6年)に仙台藩伊達正宗によって造られました。 有楽町マリオン前の交差点中洲の壁面に説明板があります。

南町奉行所跡と穴蔵
名奉行と言われた大岡越前守忠相が手腕 をふるった場所です。発掘調査で下水溝や井戸などが出土し穴蔵(地下室)が復元展示されています。

鍛冶橋門
外堀通りはかつて江戸城の外濠だった場所です。鍛冶橋門は1629年(寛永6)に秋月藩によってつくられました。現在は鍛冶橋交差点に説明版が残るのみです。

常盤橋門
1629年(寛永6年)に築かれました。古くは浅草口・大手口とも呼ばれ奥州街道に通じる要衝でした。現存する石垣はこの枡形門の石垣の一部です。

江戸城外堀の石垣
荷揚げ場跡
江戸城の築城資材は海運が主体で、この場所が荷上げ、集積場でした。鎌倉橋の大手町川端緑道脇には荷揚げ場が当時の石垣とともに残っています。

神田橋門
徳川家将軍が上野寛永寺や日光東照宮へ出向く際に神田橋門から筋違橋門を通る御成道だったので警備は厳重だったそうです。石垣が残っています。

一ツ橋門
一橋徳川屋敷跡
一ツ橋がかかる日本橋川護岸に外堀の石垣が残されています。一ツ橋を渡った先に枡形櫓台の石垣が現存しています。神田橋から一ツ橋までの日本橋川の対岸は、徳川御三卿の一橋徳川家の屋敷がありました。丸紅本社前に屋敷跡の碑があ ります。

雉子橋門
日本橋川の最上流にある雉子橋門は、内堀と外堀が最も接近する場所にあたります。橋に説明板があります。

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