東京レトロ街歩きガイド&マップ

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Ar-03 赤坂見附から紀尾井を歩く

赤坂駅から赤坂見附跡、紀伊国坂(別名 赤坂)、紀尾井坂を経て四谷の迎賓館を目指して歩きます。

推奨する街歩きの起点
赤坂駅 赤坂見附駅 四ツ谷駅

主なポイント抜粋

江戸史跡

報土寺 雷電為右衛門の墓
三分坂に面した200年前の築地塀が見応えあります。江戸時代の名力士雷電為右衛門の墓があります。

山王日枝神社
千本鳥居(山王稲荷) 明暦の大火により焼失したため、1659年(万治2年)将軍家綱が現在地に遷座しました。この地は江戸城から見て裏鬼門に 位置。空襲でも社殿が焼失し再建されたものです。

武家屋敷門
江戸末期の幕府老中、岡崎藩の江戸上屋敷の表門でした。火事で焼失した門を1862年に再建。江戸屋敷長屋門の中で唯一残るとても貴重な存在です。

豊川稲荷東京別院
大岡越前守忠相が屋敷稲荷として大岡邸の敷地で祀ったのが由来です。一般庶民の参拝も許していました。位牌を安置し た大岡廟があります。

赤坂見附跡
赤坂御門の石垣と刻印 1636年(寛永13年)に福岡藩によって築かれたものです。横の階段を登ると刻印が入った赤坂御門の石垣があります。

高野長英 大観堂學塾跡
赤坂御門の石垣と刻印 長英はシーボルトに医学・蘭学を学んだ蘭学者。シーボルト事件では巧みに難を逃れ、1830年(天保元年)町医者として蘭 学塾「大観堂学塾」を開きました。

彦根藩井伊家中屋敷跡
赤坂御門の石垣と刻印
ニューオータニ東京一帯は彦根藩井伊家の中屋敷でした。今も残る庭園は400余年の歴史を誇る名園です。周囲には紀州 藩、尾張藩の下屋敷があり、紀尾井町という地名の由来となりました。

江戸城外堀 四谷見附跡
江戸城外堀史跡展示広場
半蔵門から甲州街道に至る将軍の脱出ルートとして想定されていた要衝に築かれた枡形門です。

近代遺構

高橋是清翁記念公園
高橋是清 像
高橋是清の本邸跡です。二・二六事件ではこの邸宅で暗殺されました。

大久保利通終焉の地
1878年(明治11年)明治天皇に謁見するために裏霞ヶ関の自邸を馬車で出発し赤坂の仮皇居に向かう途上、6名の太政官政治に不満を持つ不平士族により暗殺されました。紀尾井坂の変と呼ばれています。

贈右大臣大久保公哀悼碑
明治21年、大久保を偲んで殉難の地に近い清水谷公園に大久保公哀悼の碑が建立されました。

御所トンネル(丸の内線ホームから)
1894年(明治27年)、陸軍の強い要望により青山練兵場を経由するルートで新宿~飯田橋間が延伸されました。現在の中央 線です。反対が多い中で陸軍のゴリ押しにより、畏れ多くも赤坂御料地の敷地の一部にトンネルを敷設しました。丸の内線四ツ谷駅の荻窪方面ホーム後方から見えます。

二葉亭四迷旧宅跡
二葉亭四迷が1880年(明治13)年から1年 間、東京外国語学校ロシア語科に入学し寄宿舎に入るまで過ごしたところで、父 の実家である水野邸が建っていました。

近代レトロ建築

旧李王家邸(赤坂プリンスホテル旧館)
竣工年:1930年(昭和5年)設計:権藤要吉。
大韓帝国の皇太子として生まれ、韓国併合後は日本の皇族に準じた扱いを受けていた李垠の邸宅とされた建物です。のちに参議院議長公邸などとして使用され、1955年に赤坂プリンスホテルとして開業したものです。

上智大学1号館
1932年(昭和7年)の竣工。
1階廊下の梁がアーチ形をして、1階は花崗岩、2~4 階は色が異なるスクラッチタイルです。

迎賓館 赤坂離宮
竣工年:1909年(明治42年) 設計:片山東熊。
ヴェルサイユ宮殿を参考に、西洋の宮殿 建築に日本風の意匠が混じった装飾になっています。東宮御所としてに建設されましたがネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことで住居としての使い勝手が悪く、離宮として扱われました。

都心に生きる古木

山王日枝神社男坂のイチョウ
樹齢:200~300年 高さ:20m 幹周:4.7m

旧井伊家中屋敷のイヌマキ、カヤ
樹齢:ーー年 高さ:14-20m 幹周:3-4m
ニューオータニの日本庭園内。目安は女子トイレ近く。

四谷見附公園のプラタナス
樹齢:ーー年 高さ:32m 幹周:4.8m

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