東京街歩きコース内容

東京街歩き 119散歩コース&マップの詳細内容

D-1-02 坂と歴史の町-2 小石川 茗荷谷

港区に次いで坂の数が多い街が文京区です。 武蔵野台地の東端に位置する文京区の地形は、神田川などに作られた低地と関口・小日向・小石川などの台地の間にできた谷によって構成され、坂が数多く存在します。

江戸時代の大名屋敷が明治維新以降は軍の施設や教育機関に転用されました。東大などの教育機関に文化人、文芸人が集まり、さらに戦後は軍の施設が公共施設に転用されるなど、文京の歴史、文化は時代の変遷が地層のように重なっているのが特徴です。このコースは文京区小石川、茗荷谷エリアにフォーカスして、今に残る歴史ある名坂と歴史の痕跡が組合わされた独特の風情を辿ります。

主な史跡抜粋

プロ野球選手たちの鎮魂碑
東京ドーム横に、戦死したプロ野球関係者の鎮魂の碑が、その傍には中等学校、大学、社会人野球の選手の慰霊モニュメ ントがあります。

嘉納治五郎の像 (講道館)
講道館は嘉納治五郎が興した柔道の総本山。柔道の生みの親であ利、東京師範学 校で柔道のスポーツ化に尽力した嘉納治五郎の像があります。

神田上水石樋の石
神田上水は日本最初の上水道です。この石樋は昭和62年神田川分水路の工事中に発掘された神田上水遺跡の一部を移築復元したものです。

東京都戦没者霊苑
太平洋戦争における東京都の戦没者16万余りの霊が祀られています。戦没日本兵の遺品展示室があります。
旧東京砲兵工廠射撃場
礫川公園一帯にはかつて水戸藩江戸上屋敷跡に作られた東京砲兵工廠の試射試験場がありました。主に三八式歩兵銃等の 小銃の試射試験場でした。

源覚寺
特攻隊慰霊碑
汎太平洋の鐘
この鐘は戦中、サイパン島の南洋寺に移されました。日本軍は玉砕し行方不明になり、戦後米国テキサス州で発見され返還されました。鐘には激戦の弾痕が残っています。

善光寺坂のムクノキ
伝通院の境内だった所で、樹齢400年以上の古木。空襲で木の上部が焼けたといいます。
幸田露伴旧宅 小石川蝸牛庵
露伴は1927年(昭和2)から住んでいる家を「蝸牛庵」と名乗っていました。空襲で消失後は娘の幸田文が建てた家が現存しています。

処静院跡
処静院跡の石柱
伝通院の子院・処静院で浪士組が結成されました。新選組創設メンバーの多くが処静院に集まっています。

伝通院
徳川将軍家の菩提寺。1603年(慶長8年) に家康は母の遺骨をこの地に埋葬し、於大の法名の伝通院としました。伝通院は芝の増上寺、上野の寛永寺と並んで江戸の三霊山と称されました。
家康の生母於大の墓所
秀忠の長女千姫の墓所
家光正室の孝子の墓所
佐藤春夫の墓所
清河八郎の墓所
1863年(文久3年)浪士組に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻し、清河八郎は刺客により暗殺されました。

萩の舎跡
樋口一葉14歳の時に入門させた中島歌子が主宰していた歌塾でした。一葉は上流階級の子女に交わりながら、歌や書などを学んだそうです。

牛天神北野神社
太田神社・高木神社
源頼朝の腰掛石
牛石 (伯牛)
1184年(元暦元年)源頼朝によって創建。頼朝と牛の形をした牛石の伝説が残っており牛天神の通称で知られています。

徳川慶喜屋敷跡碑
徳川慶喜は1901年(明治34年)巣鴨から当地へ転居してきました。慶喜遺愛の大イチョウの木が現在も残っています。
徳川慶喜終焉の地
慶喜は1913年(大正2年)この地で亡くなったそうです。 享年76歳、歴代将軍の中で最長寿だったそうです。

宗慶寺 徳川家康の側室 茶阿局の墓碑
徳川家康の側室でした。松平忠輝、松平松千代の母。聡明であり、強い発言力と政治力を持っていたようです。

林泉寺 しばられ地蔵
願かけのとき地蔵尊に縄をかけ、かなうと縄をほどくというもので、庶民の信仰を集めていました。

占春園 (水戸徳川家屋敷の庭園)
嘉納治五郎先生像
水戸徳川家光圀の弟、松平頼元の屋敷庭 園の跡。1903年(明治36年)に東京高等師範学校が湯島からここに移転。

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D:武蔵野台地を体感する

コース経路

Start丸の内線後楽園駅2→→End丸の内線茗荷谷駅1

ウォーキング距離と歩数

9km 13800歩