東京街歩きコース内容

東京街歩き 119散歩コース&マップの詳細内容

A-1-17 幕末に暗躍した外国公使館

井伊直弼は勅許の降りないまま日米修好通商条約を調印、同様な条約がイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結びました。同時に薩長両藩は下関戦争、薩英戦争を経て攘夷の困難さを身をもって知り、イギリスと薩摩は接近を始めました。

戊辰戦争が勃発するとイギリスは局外中立を宣言し他国もこれに追従したものの、フランスは幕府への肩入れを強めるなど、外国公使たちは幕府側、新政府側に影響を与えました。一方で尊王攘夷の高まりもあり、公使館の襲撃事件も頻発するという緊迫が続きました。江戸の公使館のこうした歴史を辿ります。

東禅寺 イギリス公使館はブログ「高輪、三田の街歩きウォーキング (概要編)」、善福寺 初代アメリカ公使宿館跡はブログ「麻布十番のぶらり歴史散歩」の実際の街歩きレポートに収録されていますので、是非参照してください。リンクをクリックすると別ウインドーで開きます。

主な史跡抜粋

東禅寺 イギリス公使館
18年間に渡って駐在し外交をリードしたパークスは内政不干渉の立場ながら維新の志士たちとも積極的に接触しました。新政府軍の江戸城総攻撃に反対し、江戸無血開城の一因となったとも言われています。攘夷派志士が襲撃した刀傷や弾痕が奥書院や玄関の柱に今でも残っています。

済海寺 フランス領事館跡碑
日仏修好通商条約にもとづき、1859年(安政6年)に設置され初代公使としてド・ベルクールが駐在しました。フランスは親幕府的な立場をとるようになり、積極的に関与しました。1867年(慶応2年)からフランス軍事顧問団による幕府陸軍の訓練もしました。

春桃院 プロシア公使館
プロシアの外交使節がプロイセンとだけではなく、条約にドイツ関税同盟諸国など三十数カ国を含めることを求めたことから交渉は難行したといいます。春桃院は南麻布に移転して、説明板のみあります。

ヒュースケンの墓
1861年(万延元年)、アメリカ公使ハリスの秘書兼通訳のヘンリー・ヒュースケンは攘夷派の薩摩藩士に襲われました。ヒュースケンは赤羽接遇所に滞在していたプロイセン王国使節のもとを訪れたのち、善福寺のアメリカ公使館に戻る途中、攘夷派の武士らに襲撃され死亡。幕府はヒュースケンの母に1万ドルの弔慰金を支払って事件を落着させました。

善福寺 初代アメリカ公使宿館跡
日米修好通商条約を締結し、それまで下田に居た領事タウンゼント・ハリスが初代駐日公使として赴任しました。ハリスは英仏が日本に不利益な条約を強制する危険があり、アメリカとの条約を先に締結するべきと主張しました。南北戦争が始まった後は米国の影響力は小さくなりました。善福寺の見どころは、福沢諭吉の墓所 善福寺の大銀杏 越路吹雪碑 勅使門など。

赤羽接遇所跡
1859年(安政6年)に設置されました。江戸に領事館や公使館を持たない外国人のための宿舎兼応接所として作られました。プロイセンのオイレンブルグやシーボルト父子、ロシア領事ゴシケビチなどが滞在しました。現在は飯倉公園になっており、説明版のみあります。

西應寺 オランダ公使宿館跡
1859年(安政6年)に設置されました。 1867年(慶應3年)の薩摩屋敷焼き打ち事件で焼失しました。オランダは鎖国中も長崎での交易を許されており、幕府に海外事情を報告していました。ペリー来航後、幕府は開国に備えオランダに軍艦の発注と乗員の訓練を要請、長崎海軍伝習所が設立され、オランダは練習船も提供しています。

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A:江戸と呼ばれた東京

コース経路

StartJR高輪ゲートウェイ駅→→End 三田線芝公園駅A2

ウォーキング距離と歩数

13km 20000歩