東京街歩きコース内容

東京街歩き 119散歩コース&マップの詳細内容

A-1-16 上野戦争 彰義隊と新政府軍の戦い

1868年(慶応4年)、徳川慶喜は水戸に謹慎となり、江戸城は無血開城されて江戸総攻撃は回避されました。しかし抗戦派の幕臣は千名を超える規模で彰義隊を結成し、寛永寺に集結して北白川宮能久親王を擁立しました。

これに勝も西郷も有効な手を打てず、新政府軍は西郷を罷免し、長州藩の大村益次郎に討伐を命じました。圧倒的に優勢な新政府軍は1日で彰義隊を撃破し、戦場の寛永寺も壊滅的打撃を受け、彰義隊は親王と共に榎本武揚の艦隊で東北へ敗走しました。戦死者は彰義隊266名、新政府軍30名と言われています。

このコースは新政府が名実ともに江戸を掌握した上野戦争を辿ります。

経王寺 山門に上野戦争銃弾跡はブログ「谷中のぶらり歴史散歩-1」、谷中霊園 徳川慶喜公墓所はブログ「谷中霊園に眠る有名人-2 (東京墓マイラー)」、北の丸公園 北白川宮能久親王銅像はブログ「江戸城を極める 清水門から北の丸、田安門へ」の実際の街歩きレポートに収録されていますので、是非参照してください。リンクをクリックすると別ウインドーで開きます。

主な史跡抜粋

円通寺
上野戦争 寛永寺黒門の弾痕
彰義隊士の墓
この寺の住職が彰義隊の死者を(西郷隆盛像近く)で火葬をして寺に埋葬しました。火葬を行った場所の近くの寛永寺の黒門が移築されています。 (吉展ちゃん事件の遺体発見現場でもあります)

経王寺 山門に上野戦争銃弾跡
上野戦争で彰義隊士がここへ隠れたため、新政府の攻撃を受け山門には弾痕が今も残っています。

谷中霊園 徳川慶喜公墓所
水戸、次いで駿府での謹慎ののち、戊辰戦争の終結で謹慎は解除され江戸に戻り晩年まで居を構えました。近隣の墓所はコースF-1-01東京墓マイラー-1を参照

寛永寺
現在の寛永寺は、子院があった場所に1879年(明治12年)、川越の喜多院の本地堂を移築して復興されたものです。

旧 寛永寺
旧本坊表門
根本中堂跡
五重塔、清水堂
寛永寺は1625年(寛永2年)、3代将軍家光の時に建立された徳川家の菩提寺です。北白川宮能久親王に至るまで、皇族が貫主を務めました。現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の旧境内で、上野戦争で残ったのは五重塔、清水堂、大仏殿などごく一部となりました。

上野公園
彰義隊の墓
西郷隆盛銅像
上野公園の見どころは、旧因州池田屋敷表門 ボードワン博士像 小松宮彰仁親王像 上野東照宮 正岡子規句碑など、コースコースA-2-04上野 下谷 下町を歩くを参照。

北の丸公園 北白川宮能久親王銅像
彰義隊の敗北により寛永寺を脱出、仙台藩に身を寄せ、新政府軍に対して強い反感を持っていたといいます。北の丸公園の見どころは、コースA-3-02江戸城を極める-3を参照。

靖国神社 大村益次郎像
大村益次郎像の顔は上野公園の方を向いており、西郷隆盛像と視線を合わせているともいわれています。

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CATEGORIES

A:江戸と呼ばれた東京

コース経路

Start日比谷線三ノ輪駅3→→日比谷線三ノ輪駅3→→JR日暮里駅東口→→銀座線上野広小路駅A3→→東西線竹橋駅1a→→End新宿線九段下駅1

ウォーキング距離と歩数

9km 13800歩